何事も正確に正しく測れる定規があるとされている。その定規は誰にでも手に取ることができて、いつでも取り出して使えるという。スタンダードな定規として、最初に配布される。その定規をいくらかデコレーションしてみたり、素材を変えたりするのも現れた。同じようにして、製品化できることも知った。それを使って今度は売りに出かける人の姿を見た。興味が湧いたので、一緒に追っていくことにする。
しばらく歩くと目的地に着いた。そこには彩り豊かな定規が所狭しと並んでいた。姿形を変えた定規、色がついた定規、透明で見えにくい定規…などなど。色んな種類の定規が存在していた。その定規の多様性と言ったらない。
スタンダードだとされていた定規は、原型の影はあるものの、作り手によってアレンジが施されていた。それを持って、この定規の良さを買い手に必死になって宣伝している。
「安いよ〜」「便利だよ〜」「誰でも簡単に使いこなせる!」などなど。
たまに「不幸なあなたを幸せにします」と言って売り出す人の声も聞こえてくる。
不穏な響きを持ったものから、本気で世のため人のためを想って売っているものまである。世のため人のためでも、生活費は誰かから拝借しないといけないらしい。べらぼうに高い金額を付けて。ひょっとしたら、その材料費が高いのかもしれない。人という字は、誰かと支え合って初めて成り立つ、と真顔で言っていそうな人たちだ。どうやら私の方も、不穏な響きを持ったものを持ち併せているらしい。それをこの目で確認できる術があるというのは幸福だ、と反発心少なに持ち合わせながら売り場を歩く。私も似たようなものだと苦笑いした。
程度の良し悪しを傍目で評価しても仕方がない。そうは言っても何かと目をかけたり、応援や反発があって成り立つものも存在する。その存在なしに、自分の身の保証ができない、というのもまた事実だ。妥協という二文字が頭に浮かんだところで、この世のクソ喰らえとひとこと呟いて満足するのが、私という人間だ。
人間性に問題があって生まれてくるのはゼロに等しいのに、いつからか問題を抱えて過ごすことになる。その問題を大事にするから事が大きくなるのであって、柔軟に右に曲がったり、左に曲がったりができれば、そこまで苦労しない。苦労しない方法は簡単だ。しかし、苦労してまでも欲しいものがある、といった貪欲な精神の持ち主には、これは通用しない。傍から見れば異常極まりないこの行動は、当人が認識するしないにかかわらず、猪突猛進に見える。そういった貪欲な精神を持った者が売る展示品には、興味が湧く。そういうわけで私はここに来ている。
しかし、その奇異な好奇心も悪影響を与えることがあるので注意が必要だ。ひっそりと動向を見守っている今の私は、泥棒に近いものを感じつつも、実は同胞だったりする。それは行動で示していかないとわからない類のもの。わざわざ言葉にすることなく、行動するのが格好いいと思っている。そういうのを不言実行なんて言われているけれど、そこまでの格好がつくような動機は一つもない。ただ単に邪魔が入るのが鬱陶しいだけの話だったりする。人の目を凌いで作業できるなら、それに越したことはない。
気づいたら一部だけが変わってる!だけでいいのだ。
人の目がつかないところで、好きなことをする。人の目がついても知らんぷりして作業する。ここは誰もいない街。
おっと、思索に夢中になりすぎて追っていた人を見失ってしまった。
続


コメント