見失った人物はこの市場のどこかにいるはずだ。目的地についたので、場所まで運んでもらえれば満足である。私という人間は人そのものに関心が高いわけではない。興味関心が他に移りやすいのは良さであり、弊害でもある。人に興味を持ったところで何になるのか、というやや偏屈気味なところがある。それは過去の出来事から関係している。
自己主張が激しくなければ、特段これといった個性も持ち合わせていない。あるのは、人よりもこだわりが強く、自分に絶対的な信頼があることくらいだ。自分に信頼があるからと言って特に自慢できることもない。それを根拠なき自信と呼ぶこともあるけれど、自信があるわけでも決してない。ただ単に自分にだけ信頼を寄せている、というだけだ。
私という人間を使いこなせる人もまた、いない。普通は、人に合わせてもらうことを考えるのではなく、自分が人に合わせるようにして過ごすのが良しとされている。そういったことにも関心が持てなくなり、スタンダードな定規を捨てて街に出てきたのだった。
この街には、そんなスタンダードな定規を捨ててやってきた人もいる。やはり多くはなく一部ではあるけれど。そういった人物がどういった形で定規を売り出しているのか、この目で見てみたいと思った。不純な動機で定規を作ろうとしている私もそこに存在していた。
これから出来上がる定規の完成形を想像しながら過ごす日々。餌が目の前に吊るされていて、それを追っていく毎日のような過ごし方だ。あと少しがいつでも遠い。近くに迫っていて、そこから動きをつけたりすることを好むことなく、その延長、また延長、とどんどん時間を費やしていく。それは生きるための、架空のポイント地点のようで、今の私にはその存在だけがありがたかった。自分で作り出した架空に過ぎないけれど。
どうしてそんな生き方をしているのか?と疑問に思う人もいるだろう。刺激が少なくて、「今を生きている」実感を持つのを第一としていて、「今この瞬間」を感じていたいからだ。野生本能に近いものを今も持ち併せている。こういった人間が本当に少なくなった。それを密かに残念に思う。人間は感覚ではなく、理性で考えるのが第一と言うのに、その第一にしたいものは架空のものでしかない。もっと地に足のついたものを求めんか!と、そう思う。日常を過ごす生活自体に足がついていないのは、私の方だけれど。意識を持ち始める発生源というのだろうか?それがだんだんと架空のものへ変わっていく様子を横から眺めたままでいるのは、いい加減に気持ち悪くなってしまった。どうも感覚が人よりも細かいようで。それがあるから今の私が成り立っている。
せっかく市場に来たので、定規を見に行こうと思う。どんな定規がいいかな?、と自分で先に決めておきたくなるのは、誰かに人生を示されたくないからなのだと思う。どこまでも私が優先される。私の世界には私しかいない。今の見えているものは、私の思念体に過ぎないのだ。そう言って人を認識することなく日常を過ごすことを好んでいる。もうその時点でかなり人の存在を意識する存在なのだが、認めたくない私もまた人間らしく思う。
続


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