事実を淡々と語るのと、知り得たものの感動を語るのとではどちらが難しいのかと思うことがある。
事実は順を追って話していけば良いのだから簡単に思われる。
何を以てしてどう決めるのか、というのは先に示しておく必要があるかもしれないが、それだけである。
私自身人間として生きているのだから、人間らしく感動体験を語っていたいと思う。
それでも感動体験を言葉に乗せようとすると途端に出てこなくなることがある。
自然な状態のときはリラックスしているのでスラスラと言葉に乗るものなんだなと思った。
それが何か限定されたものになってくると、力み始めて固く閉じていく。
固く閉じた空間でも急ぎで足さないといけないとしたら、より早く開くにはどうしたら良いのかとすぐに出ないものを延々と考えては疲れて眠る日が続く。
忘れた頃に何かの弾みで出てくることもあるけど、もう時期は過ぎているのだからまとめても意味がないような気がしてくる。
意味がないことなどないのだと言って何事もなかった日常に戻っていく。
ここまですごく抽象的なことを書いた。
他の人と違って具体的に落とし込むのは選択を狭めるのかどうも苦手なようだ。
ひょっとしたら自身でも具体的なものがわからずに先に抽象的な何かから目をつけて、考えているようで考えていないを繰り返しているだけかもしれない。
そんなやりきれない日常が続くとストレスが溜まって仕方がないのだが、いつか抜け出た日が来ると信じて延々と同じことを繰り返すらしい。諦めが悪い笑。
ある時を境にしてクリアになる感覚を覚えているのだから、それが自分の中での完全な報酬と思うらしい。
表向きの現実には何も事を成していないのだからプラマイゼロである。
例えものが見えなくても自分の中にある納得感の方が後々の行動にはプラスに働くものである。
その辺はもう少し評価されても良いのではないかと思うのだが、表向きに顕になっても面白くないので心の中だけに留めておきたい。
始めから目的を作ってそこに到達するまでにどうしたら良いのかというのを抽象的な言葉の概念に当て嵌めるのは酷く愚かなことかもしれない。
何らかの指標があってやっと腰を上げるのものとあったりするが、直接的な利益となることもないのなら放っておかれて良いかと思う。重たい腰の言い訳になるのかもしれない笑。
自分にとって何が幸福か?と考えるのはあまり意味がないんじゃないかなというのを長ったらしく言っただけである。
理想と現実のギャップに苦しめられることもなく穏やかに過ごしたいと思う。
が、たまには苦役を買ってでも何か事を成す意味があるのかもしれない。


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