静かな時間にPC作業は音が響いてしまい、使いにくくさせる。単独行動するだけなら特に問題にならなかった騒音問題が、身近な場所になると、気にせざるを得ない。近所だって身近な場所にはなるけれど、私は近所の人の顔も名前も知らない。幼い頃は、どこに誰が住んでいるのかはよくわかった状態で生活していたというのに。単身で暮らしていけるようになって、小さなグループ化が進んだ。それぞれの場所で固有の文化を持つようになってきた。皆に共通の、という認識すら限定的になっていき、スタンダードを見直そうとする動きが見られる。仕切りを増やしすぎた結果がこうだ。何が何でもをそれぞれのもの、としすぎると似たようなものが含まれずに、それ単体という顔をして、主張し始める。集団がバラバラに解体されたように見えて、ポツンポツンといくつかのグループ化ができてきた。やってることは何も変わらないのに、これは新しい状態とどこもそんな顔をする。新しい閾を用意したにすぎないのに。そういった状態が発展を促すこともある。それでも、なんだこの世は、とおかしさに首を傾げてばかりの人がここにいる。
場所を、私のものだ、とマーキングすることばかりが目立っている。なぜこうもマーキング活動のような行為が目立つのか。自分のにおいをあらゆる場所に振り撒いておくと、そのにおいに安心して居心地が良くなっていく。布団が気持ち良いと感じるのは、そんな自分のにおいがすでに振り撒かれていて、ここは私の場所、となるからだと思われる。毛布に染み付いた自分のにおいを嗅いで安心する、というとただの変な人に見えるけれど、いつもと同じ状態がそのまま維持される。これはだいぶ快適だ。それと同じように、さりげなくあらゆる場所に自分のにおいを混ぜておく。実際には、においを混ぜるという意識はないけれど、ここは私がいる場所と宣言することで、ここにいても良いんだ!と主張する。最近そう言ったのが多いように思う。人がどこにいても良いじゃないか、という顔。
あの人は人と変わっているから、とか、不思議な行動を繰り返すから、といったことで行動の一挙手一投足に注意が集まる。注意を向けるつもりはなく、あの人物は危険なのか安全なのか?という興味が先に立ち、人を観察するようになる。奇異なもの見たさの好奇心と自分の像と向き合うことの不快感を同時に抱える。その状態の精神面が良いはずはないのだけれど、常態化して自分に取り込むことでウイルスのパッチではないけれど、抗体ができてくる。そうして取り込んだ新しい「私」が日常を安定させようとしていく。そういうのが目に入ると、やはりどこもやることは変わりませんな、と。
同じことしてるんだから、仲良くすれば良いのになー
みたいな。
遠目から見たこと。
仲良く、というのは実際に仲良くすることではなくて、自分のにおいをそれとなく混ぜて一緒くたにしていくもの。
ただにおいを混ぜる行為には、どのにおいが強い、とかで喧嘩していく。
空気は人類全体で共有しているのに、これから何を新しく主張する必要があるのか不明だ。

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