何かを担いで運ぼうとする人

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何かものを言ってやり取りすることを善しとしていた。それは言うだけで拍手されていたものだった。そうか、私の口から発言することは、人に自分を報せることにもなるし、私とはどういった人物かを示すものだと。それを神聖化しすぎたあまり、人間関係に響くことは微塵も考えず、ただひたすらこれは良いことなのだと。これは人を枠に入れるための行為で、私自身にあるだけのものではなく、都合の良い解釈が可能になると見たものでしかなかった。刷り込みはここでも働いていたのに気がつく。

それはあんまりじゃないか!そこに自分が欲しいと探していたものは見つかることがないのも当然だった。なんだ、それだったら意味がない。詳細に見たところで、物事を暴いたところで、自己満足にしかならない。そういったもので満足できるタイプならよかったなと、虚像が壊れていった。

虚像が壊れていった後で、積み木を組み立てていくような一人遊びが始まる。何かと自己満足をするのがだんだんと目的になっているような、自分だけで納得できるものを探す旅へとすり替わっていく。なんと単純な生き物か。ものに掴まりながら実物を手に取り、これはどういうものかを知る。

人には五感がある。全部を使って空気を思いっきり吸い込むのに時間を費やすと、また新鮮な空気が入ってくる。その場所だけに留まっていた私には気がつかなかった景色や、他の視点からの考え方などを見たり観察できたりする。ただの観察だけになってしまうと、人は背景じゃない!となりそうなものだけれど。人に対して観察と言うのは、言葉の使い方として合っているのかは片隅に置いて、「これは私から見た視点です」みたいな顔をしている。

一々前置きをしてから発言しないといけない風潮のようなものは好かない。あらかじめ私の方からガードしたところで、何を警戒してものを言うのかとなる。ものを言うときにはガードではなく、開けた状態でいるのがあるべき姿だろうと思う私もまた、とても厳しい。
「あんた、これだったら修行僧になっちまうぞ!」なんて言われた。
人生は修行の連続。その中で楽しく過ごせばいい。たくさん苦しんでから解放された方が、心身ともに気持ちの良いものじゃないか。坂道のない平坦な道をそのまま歩くのに飽き足らず、負荷を増やして筋肉を動かそうと思うらしい。

実際の私と言えば、運動が大嫌いだと体を一室に固めて過ごしている。これでは言うことと真逆になってしまう。動かせ、自分の体を!

ものを言うだけに留まらず、姿勢としても立派なものでありたい。まだまだ修行の身、素振りばかりをしている。こんなことでは先が思いやられるぞ!と残しながら、これは習性のようなもので、変わることもないのかなと苦笑いしている。

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