創作スイッチ

エッセイ

文体の雰囲気を変えて楽しむのは完全に個人の趣味で、人に寄り添ったものではない。人に読ませるように書かれた内容ではないため、文章全体の温度は低くなる。どこにも意思表示をせず、ただ書きたいことを詰め込んだだけの内容がずらずらっと並んでいる。そういうブログを読むと、私も似た内容の記事を書きたいと思う。書くのが好きな人の雰囲気がサイト中に散りばめられている。その人視点で見た感想、批評、小説の材料となるものを置いて、創作の軸足にしている。創作には創作のための材料が置いてあってもいいのだと思わせてくれる。

人の独自の視点から見た、私が思う”あれこれ”がそのまま創作になる。自分の文章を読み返すと、この手の創作で占めている。欲張りなもので、他の書き方にも足を伸ばせないか、などと言っている。他の書き方をしたところで、興味は移るばかり。色んな視点を持ち合わせた私が、ブログにいるのを見て満足したいだけだった。視点操作を好きなタイミングで切り替えられる書き手は書き手自身をも楽しませる。
いつも同じ調子では飽きてしまう。変化ばかりを求めるなら、文章に落とし込むより前に、人に会いにいくのがいいだろう。

私にそんな体力はない。

低刺激で高価的な体験を探すとなると、読書や映画にそれを求めるようになった。それらは私の好きなタイミングで始めたり辞めたりができる。商品自体の価格もそこまで高くなく、数千円で買える。何冊も何十冊もカゴに入れると良い金額になっていくのだが。なんでもカゴに放り込む楽しさと同時に、金額にヒヤヒヤしながらギリギリまで詰め込もうとするスリルがある。これは良くない。

そうして、私の高価な体験記が始まるのだった。

ここで可能になるのは、他の人の視点だ。長時間人と話すのに抵抗があり、すぐ疲れてしまう人にはちょうどいい。実際の体験ほど効果は少ないとしても、時間を自分で操作できるのが、内容を理解するのに十分な時間を確保できる。これに独自視点を取り込もうとすると、ある程度の時間は必要だ。内容を落とし込む時間と、自分なりに落とし込んだ時間の両方である。数日も数年も続けていると、隠居生活でも始めたような雰囲気が、私にも滲んできた。人は行動や習慣で雰囲気までが変わってしまうように見える。実際に変わったのは、視点の持ち方だけにすぎないのに。何を大袈裟に変わったというのだろう。

文体にもこういった変化を持たせて、色んな角度から眺めた視点を取り入れる。複数の著者が見本となり、書き方や視点を教えてくれる心強い存在になっていく。人は亡くなっても文章は死なない。残っている書き手が後を引き継いだり、そこから発展した内容ができあがっていくのをこの目で見るのが、書き手としても読み手としても感動する瞬間に立ち会えるのではないかと思う。

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