何もしなくても時間が過ぎる

エッセイ

起きて数時間すると、日付が変わる寸前だった。

ここ一週間でそんなことが増えた。

どうしようもない生活を続けているけれど、これは風邪を拗らせているからだ、と言い訳にしている。

どうも夜中は咳が酷くなる。

去年、一昨年も、この時期あたりから咳が酷くなっていく。

暑い時期からいきなり寒くなるので、体が追いつかないようだ。

気温の変化を感じるくらいには、外にいる時間を長くするのがベストなのだけれど、インドア傾向のある私は、腰を浮かせる時間が長くなると、足に来る気がしている。

そんな衰弱するような体では、今後どうなるのかと自分でも心配に思う。

部屋の中でもできる運動をした方が良い。

毎回そう言っているのに、椅子から移動するのが苦痛だ。

「運動習慣を身につけさせてくれ」と他力本願でいるのが、きっと良くない。

目的がない状態で外に出るのも、歩いているうちにどこに向かえば良いのかわからず、彷徨うことになる。

何かしらを目的に、この場所へ行く、と目印をつけておくのが良い。

ここでも、何をする、というので、しばらく悩ませることになる。

何をしようか。

この時期なら自然観察しに行ったり、書店を覗くのが、休憩ポイントになりそうだ。

野生動物に注意しながら道を歩く。

少し先の道路に出れば都市部なのに、下に降りればいきなり自然風景が広がっている。

朝8時頃に、大きな川横から眺めると、野鳥の群れがご飯を食べにやってくる。

迫力がある時間に、のんびりと「生きる」とは?とぼんやりしているくらいが、楽しいような気がする。

あまりそこで思い悩むことなく、「死ぬために生きている」と適当に結論付けて、席を立つようにしている。

呆気ない。

もっと捻りのある考えを出せるように、生活を豊かなものに変えたいものだ。

生活を豊かにすると言っても、特段変わったことはなく、普段の料理を丁寧に盛り付ける、とか、部屋を綺麗に片す、といった類のものだ。

それができていると思うだけでも、できてない人からしたら特別のように感じられる。

不思議だ。

生まれてからこれまで、その人たちとは何が違ったのだろう?

いくらか丁寧になったのは、内面の変化を繊細に感じ取れる、というくらいだ。

手の込んだ細やかな配慮が、内に出るか、外に出るかの違いなのさ、と変に納得するようになった。

そうとも言えるし、そうとも言えない。

衛生問題に関心を持つには、周りへの興味関心が向いていなければならないのだ。

周りの興味が、身近の直接生活に関わるものであれ、と思うけれど、それよりも他の興味関心へ移る。

例えば、生活に必要な水がある。

水に注目して、これを沸騰させて放置させて時間を置いたら、どれくらいの水が減るのか、とか。

水かさが減るだけでは飽き足らず、ここに虫を入れてみよう、とか酷いこともする。

普通に水が減るよりも、だいぶ早い時間で減っていく。

その変化を見る方が私には楽しく感じられる。

目に見えた変化はダイナミックではないけれど、じわじわと時間をかけて変化していく。

ある日に覗いて意識に上らせると、だいぶもとの状態から変わっているのがわかる。

私の中にいる小学生男子はいまだに健在のようだが。

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