麦茶が完成するまで

エッセイ
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今だに麦茶を飲んでいる。

麦茶は夏の飲み物だと言われているけれど、いつの間にか年がら年中飲んでいた。

春から夏にかけては、少しずつ気温が上がっていく時期なので、体温を下げてくれる飲み物として重宝している。

がぶがぶと1.5リットルを飲んで、ポットが空になるのも早い。

夏の盛りが終わり、涼しくなってきた今に飲んでも、喉を潤すのに最適だ。

あまり頻繁に飲みすぎると、今度は一枚羽織らないと寒いくらいに体温が下がっていく。

飲み過ぎには注意だ。

問題は、簡単に作れるので、がぶ飲みしてしまうことだ。

安価で、50個以上のお茶パックが入っていて、200円もしない金額で手に入る。

これはペットボトルを3本買うより安い。

「麦茶なんて誰でも飲んでいるじゃないか」

そうだ、誰もがよく飲んでいる。

ただ、私には、麦茶とじっくり向き合うくらい、時間に余裕があるのだ。

有り余った時間を作っているのは私なのだけれど。

そんなお茶パックから水出しするのにも、待ち時間がいる。

美味しい麦茶になるまで1時間以上。

置いておくのを渋り、早い段階で飲むと、味は薄く、風味がほんのりと水に溶け込むだけになる。

少し色味のついた水だ。

うっすらとお茶。お茶のような水。

水の味しかしない。

「風味だけをお楽しみください」と渡された水だ。

そんな状態の麦茶も、水からはいくらかお茶になりかけているので、もう少し置いたら美味しいお茶ができあがる、と待てるようになる。

もう既にフライングしていた。

時間に余裕があると言いながら、水出しのお茶が完成するまでは、待てないのだった。

ポットを複数持てば解決しそうだ。

そのポットすら買ってくるのを面倒に思っている。

麦茶飲みたさに、外に出かけるのがあるか、と。

麦茶への愛はそんなものだったのか。

通りで、麦茶の方が自分から去って行って、なかなか完成しないわけだ。

しばらくして、麦茶から興味が逸れたところで、完成している。

これは興味を持ちすぎて、ギラギラと目で追ったのを気色悪がって、隠れてしまうのに似ている。

期待に満ちた目を向けられると、鬱陶しいと感じるものだ。

時間が経てば解決すると言う。

いくらか構われない方が、目が届いていないのを良いことに、成熟しやすいのだ。

麦茶からも置いておくのが良い、と言われていた。

つい、気になるものがあると、その動向を追っていこうと、じっと眺めがちだ。

一挙手一投足を眺められるのは堪ったものじゃない。

それは麦茶も私も同じだったのだ。

だが、気になるものにはちょっかいをかけたがる。

目をかけたがる。

目をかけることで、成長を見守っているような雰囲気がある。

可愛い自分の身になるもの、必要不可欠な存在、自分の分身。

などと勝手な理由をつけて、親しみを込め始める。

麦茶が成熟していくのと、自分が成熟していくのは、どちらが先だろうか。

麦茶の方がずっと早いんじゃないか、と。

そう見ると、麦茶の成熟速度は異様に早い。

私とは比べ物にならないくらい、早い時間を駆け足で過ぎていく。

こんな詰めに詰め込んだものが、人生にも必要なのだろうか。

色んなものが濃縮した人生は、さぞ中身が詰まって濃いものに違いない、と思いたくなる。

濃ければ良い、というものでも無くて、いくらか苦味が付き纏う。

濃度の濃さを人に求めても価値が判断できないように、外からは直接中身を確認できない。

あるのは、中身が詰まったように見えるものと、いくらか自分よりも濃度が濃い、とか、薄い、といったものだ。

実際の尺度は、一切わかっていないのに、外から見えるものは見たものだ、と満足してしまう。

目で見たものが安心材料だと思い込もうとする。

それはいくらか正しくて違うのだろう。

けれど、正しいもの、均整の取れたものとして、成果にしたくなるのは、勝手な自己満足が芽生えた証かもしれない。

それを主張していくらか宣伝していれば、人は気になる、と見てくれるのだから。

そうこうしているうちに、麦茶が完成した。

この麦茶は私の濃度のどれくらい?と、はかりにかけて、自分を基準にしないと気が済まないようであった。

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