何かを新しく始める。
始めた内容がよくわからず、実績も詳細もない状態では、どこを評価できるのかわからない。
わからないものに手をつける人がいるとすれば、自分の身近にいる人か、好奇心旺盛な新しいものが好きな人たちだろう。
それ以外は中身がわからないので、どうしても懐疑的になる。
普通はそういうものだ。当たり前だ。何もおかしなことはない。
滑稽な踊り人として、ヘンテコ踊りを楽しませるくらいにしかならないだろう。
それでも楽しんでくれる人がいるのはありがたいことじゃないか、と思えるようになった。
何かをするからには認められたい、と思うのは、人間の本能だ。
認められる以外にも、楽しみながら進めたいと思うのも、人間の本能だ。
どちらもしたいと思うのも不思議なことではない。
表現できる内容は、自分が今まで見聞きしたものからしかできない。
それを使って、見様見真似で描画するのが、始めのスタートになる。
始めから内容が完璧なものは存在しないけれど、内容が不足していたりすることで、バッシング対象になる。
有益なアドバイスも中にはあるけれど。
それ以上に多いバッシング。
何かを指摘できるのが楽しいのだ。分類できるのが楽しいのだ。
私も同じ。
最初から完璧にはいかないものだけれど、それをいくらか改善して進むしかないのだ。
良し悪しだけではなく、新しく始めた物事に目を向けて、削ったり、磨いたりしたい。
社会に出るときに、自分には何ができるだろう?というのを考えてから出ることになる。
それが毎日続く、繰り返しの人生。
最初だけで済む人もいれば、もう少し考え直す必要があると繰り返す人もいる。
自分は繰り返しながら進む方だった。
練り直し、作り直し、再登場。
何でもありだ笑。
協力者を得てからスタートするのが普通のところ、見知った人には言っていない。
言っても理解されないことがわかっているからだ。
何かしたいことがあるんだろう?言ってみなさい?と言われても、どこから話し始めたら良いのかわからない笑。
実例がないものは踏み出すだけでも勇気がいる。
宣伝と繰り返しで、興味を持った人が、それならこの人が似たようなことをしているよ、と紹介されることもある。
そこから開ける道もあるなと漠然に思っている。
直接人の協力が難しければ、書籍から協力を得たようにして、進めていくのも良さそうだ。
今の私は、見聞きした情報から組み合わせることを考えるようになった。
どんなものが形になるのか、自分でもよくわかっていないけれど、完成品が増えていけば賑やかになって、楽しいんじゃないかな、と思う。
先に完成品を見せないなんて、はあると思う。
完成品が予測できないものを完成品って言うのも、賑やかで夢があっていいな、と。
進んでからしか見えないものも、一部にはあるのだ。
ゴールくらいは漠然にでも用意するつもりではいる。
制約がないゴール。
もの自体も生き物みたいに流動的なんだと思う。
たぶん。


コメント