文学作品に挑戦する

散文

冒頭が「お久しぶり」と言うだけでは、この人、月が変わる度に同じことを言ってるよ、になってしまう。

それくらい自分のサイトに投稿する頻度が減っている。

最近はエッセイ風小説のような話を書いているので、これを自分のサイトに載せると、趣向が変わって、またもや、何を売りにしているのかわからないサイト、と化すことを懸念している。

今は、文学作品に触れて、私自身の感覚をクリアにするのと、感性をさらに磨いていくのに嵌っている。

そこから小説とは何ぞやというのを確かめている。

文学を書くには文学を知らなければいけないと思うのであった。

文学といえば、作者の自由な感性と考え方がものを言うのだが、それを形に落とし込むには、既に世の中に出ている作品を確認せねばと思うようになった。

確認しなくても、私の思う作品を書いていけば良いのだが、そこにあまり自信のない私としては、他の作品に触れてどんな形にするのかを模索したくなるようだ。

自信がない状況というのは、文学には必要な要素だったのかも知れない。

着想を広げて自信がないことを書いていけば良い。

それが書きにくいから迂回したくなる。

他の作品を経由して、自分の作品に戻ってくる頃には、どこか私の作品も読めるレベルに落とし込めている、と思うようであった。

著名な作品を読んだのだから、息遣いやリズムが私にも憑依しているように感じられて、ちょっとした文学の入り口程度の文章になると思われた。

荒削りな部分も多いが、それは後々軌道修正していくとして、上達を楽しみながら小説を書いていきたいところである。

小説を書くことで、場面を切り取ったり、残したい話を文章に込めて書けたりして、今を生きていることの濃淡を文章を通じて話せると気がついた。

文体の調子は一貫していないとリズムが狂ってしまう。

あえて変化球を加えて、作品に「揺れ」を演出するのも良いではないか。

文学と言うと「成熟」や「完成度の高さ」が要求される。

小説の書き始めというのは、スタイルが定まっていないことが多い。

そこで、小説を書き始めた初期に書いた話としての「若さ」が表れる文体が今は書けると思いついた。

文学に「若さ」は推奨されない気がしている。

新しい文学のスタイルがあっても良いはずである。

文章を書くことは誰にでもできることで、どんな内容が出来上がるのかは、完成してからの楽しみになる。

Webに載せる文章は、自分でサーバーを契約すると、どんなジャンルを書いても良いことにはならない。

暴力的な情報を載せると、契約元の品位を下げることになりかねないからである。

そのため、Web媒体と小説との相性はすこぶる悪いような気がしている。

制約が多いので、自由に書ける範囲も狭められるような感覚がある。

上手いこと切り抜けたとしても、今度は広告企業に評価されなくなってしまう。

Webで広告としての価値が低いとされてしまうと、広告を提供してもらえなくなる可能性も出る。

良い塩梅に収めるにはひと工夫必要のようである。

何も小説を載せなくても、書きやすいエッセイを書いていれば良いではないか。

実は、エッセイと言えるほどの文章がどれほどのものかをよく知らない。

日記に当て嵌まらない文章のことを、散文と言うのか、エッセイと言うのかで迷って、恰好がついたエッセイと言いたくなるようである。

文学に触れ始めたばかりというのはどうも、自身も同じ調子で合わせたいと思うのか、大した型もない癖に恰好をつけたくなるようだ。

しばしば、この状況をお楽しみいただければ嬉しい限りである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました