現在地から大自然へ

散文
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ネットサーフィンをしていて、一文が長めの文章を書きたくなった。

Webに書く文章と人に伝える文章は、短めに書くことが求められる。そこから抜けて、ダラダラと書きたい。まとまっていない文章は出口を探しにいくようで楽しい。人に読ませる気のない文ほど、自然体でいくらか自分に近いのではないかと思う。そんな左から右までびっしりと埋まっているのを見ると、「書く」という行為自体を当たり前にしているようで微笑ましくなった。それを真似て書いてみようと思う。

下はいいなと思った記事だ。ここまで自然に文章を書くのが理想なのだけれど、今の段階だと難しい。はてなユーザーさんの、のびのびと書いた記事が好きです。

出だしからこんな調子になってしまった。もっと自然と流れるように書くには、人の目を気にしないスキルが必要だ。冗談めかして言うと、このスキルの発動条件には、人から離れた自分でいることが求められる。人から離れたなんて大袈裟な。大多数の人になっていては、自分にとっての心地良い文章ではなくなってしまう。人の目を通した世間がチラついて、文章に「私」がいなくなる。いつも誰かを気にしてふざけられない。当たり障りのないようにすることが意識に上り、書いても読んでも面白さが感じられない。単調な内容がただ羅列されているだけ。文章を書く楽しさは他のところにあると言うのに…

始めて半年そこそこの人間が言うのは違うのかもしれない。そもそもオリジナルの文章は存在するのだろうか? どこかで見聞きした内容を齧って、解釈し直したものを好んで使う。それを得意気になって私が考えたもの、と言う。こういう言い方はネガティブに聞こえるけれど、逆に言えば、人が書いたものを自分でも使用できる。自分で世紀の発明をしたかのようで気持ち良くなる瞬間だ。そういった手軽なもので気分転換ができる時代に生まれてきた。後発組はその恩恵を受け取るけれど、自分の手で何かを作り出すことより、過去にあった物事を振り返る時間の方を大事にする。もっと冒険してみな〜い☆って内心は思っているのだけれど。

そうは言っても自分で何かを言う時代ではない、とばかりに指摘が四方八方から飛んでくる。これでは、伸び伸びと意見表明をする場面ではなくなってしまう。そこで自分の意思をひっそりと反映させる方法として、自分と近い考え方を押し出す。それを盾に自分を馴染ませていく。武器を持って行っても仕方がないから、私は何も持たないぞ。みたいに抵抗したくなるのは、反抗期からの名残。

足場が確立された状態で進むことを良しとしている世間体。現状維持をこれでもかというくらいに好む。改革が進んで、これが有用だったので、土台をこれで固めてしまいましょう。その安定期が過ぎ去ろうとしている今、マットから振り落とされないようにとしがみつく。しがみついて得られるものは微々たるものでしかないのに、全力投球する。ないよりはあったほうがマシ。大きな改革にはならなくても、停滞から少しでも進めば安泰。今はとても厳しい時代にいるようです。

このままの調子だとどんどん飛んでいってしまう気がした。いつもまとめずに文章を書いているけれど、自由スタイルの長文にすると、調子が崩れる。それまでどんな調子で書いていたのか、いよいよ怪しくなり、ここまでの内容は繋がっているのか?と疑問に思えてくる。意思表明がしにくいこの状況を嘆いている人、というのが強めに出てくると、現状をどうにか変えたい人のような感じがある。躍動感とリアリティさが持ち味だ。リアルを書くには抽象度がやや高めの模様。

結論ありきの現代に異議申し立て、のような内容になっていった。疑問が出たら必ず答えがセットで用意されていて、すでに問題が明らかになっていることが前提にある。これはなんでしょう?と一問一答で出すときには有効だ。このスタイルは現代の教育機関で多くみられる。考えるよりも、答えを知っていることと、それまでの過程を導いていけることが優先される。過程を導く段階でも、決められた内容通りに記述することが求められる。改変して導きました、だけでは話にならないと、新規の発想や視点を受け付けない。確実に決まっていることとして基準を置くと、答えが変わる。本当の意味での多様性を今、なんて言ってみる。

この出口はどこなのだろう?と探るのも、答え探しだ。必ずどこかに答えがあると信じ込んでいる。答えなんて本当はなくても良いのに、何かを達成した気になるために用意する。開始があれば終了がある。物事のゴールをどこかで区切って完成とさせたい。芸術作品も完成させる。人も完成させる。終わりが来るのをどこか寂しい気持ちで見つめる。このまま終わらないでくれ、と長々本の続きを待っているようなそんな感じだ。日常はずっと続いているのに、あるタイミングでスパッと切ってしまう。なんだか呆気ない。人生もいつか終わります。

長文で流れるように書くつもりが、別の場所へ流れて行ったようだ。これはこれでアリなのか? 終わりよければ全てよし。どこかで途切れたとて、自然界はずっと回っている。安心してください、回っていますよ、という顔をして。人が滅亡しても、安心してください、回っていますよ、という顔をして回るのだろう。そう思うと、自然界は恐ろしく感じる。恐ろしさがリアリティを持って期限を突きつけてくるので、諦めをそのまま受け入れることができる。それが古い自分を殺して新しい自分に変わるタイミングだ。なんだか名言っぽくなった。

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